東京電力福島原子力発電所事故発生前後から現在までの、 福島県庁と開沼博氏達による被災者への対応

宍戸 俊則

0 自己紹介

筆者は、2011年7月31日まで約25年半の間、福島県の県立高等学校正規雇用教員とし働きました。最初の4年間は、福島第一原発がある双葉町にある県立双葉高校の教員でした。そこで、原発作業員の過酷な労働条件(例:1日の被曝限度を10分で超えるので、拘束時間は8時間なのに実労働時間は10分で、主に原発配管から漏れる水を雑巾で拭いて集めるのが作業)などの例も聞きました。原発作業員がガンなどで死亡した場合、労災は認められない代わりに、一時金としては異例なほど高額な現金を遺族に支給する例も多数見聞しました。

原発事故発生時は、事故原発から直線距離で53kmの自宅に妻と子ども二人で住み、同じく直線距離で60kmの県立高校の教員でした。

事故発生後、筆者の勤務地である福島市では2011年3月15日夕方に、空間線量で最大23μSv/hを超える汚染が公式に測定・公表されましたが、翌16日には例年と同じように、屋外で県立高校の合格発表を正午から、屋内で実行しました。発表前の職員会議では、筆者を含む数人が発表方法の再考等を校長に訴えたが、「福島県庁から強い支持が出ていて、校長にも選択権はない」という理由で、合格発表は屋外で強行されました。

4月以降、筆者が勤務する県立高校では、体育の屋外授業を行わない以外は、福島県教育委員会も学校も被曝防護対策を行いませんでした。屋外での運動部の練習・試合は通常通り行われました。屋内の運動競技の選手も学校外の道路を走る練習を、被曝防護措置なしで行われました。屋外から屋内に入った時のうがい、手洗い、着替え、シャワー等の体表除染も不要とされていました。多少知識が有る筆者は、可能な限りの体表汚染の除去などを生徒にアドバイスしていました。しかし、授業中に屋外から教室内に放射性物質が入ることを防ごうと生徒に指導したことを理由に福島県教育委員会から公式の「指導」を受け、以後放射性物質や原発について生徒に話すことを、県教育委員会から禁止されました。生徒を被曝防護することを公式に禁じられた筆者は、家族とともに北海道札幌市に家族避難しました。避難してみると、私たち自主避難者に対しても、指示地域から避難した人たちと同じように、家賃補助を福島県が支払う制度がありました。(2012年12月28日までに申し込んだ人まで有効で、今後新しく避難する人には支払われません)
北海道でパートタイムの教員をしていますが、公立高校には福島県教育委員会から、人事異動に関する干渉があることがわかったので、その後は私立高校のパートタイムの教員を行いながら、原発被害訴訟の原告や、避難者団体のメンバーとして生活しています。

 

1 福島県庁と東京電力福島原発事故

東京電力福島第1原発、特に1号機と2号機は、米国メーカーが全ての建設を終えて、引き渡した物でした。3号機から6号機は、その後、日本独自の「改良」を加えたものでした。

細かい点を説明する余裕がないので、最小限の記述にとどめますが、東京電力福島第一原発は、運転開始直後から頻繁に事故を繰り返し、作業員の平均被曝線量も他の原発の2倍から10倍程度と高く、その上に多くの重大な事故を福島県や日本政府に隠していたプラントでした。その3号機で、日本で余って困っているプルトニウムを減らすためのプルサーマル発電をおこなおうと計画した際には、当時の佐藤栄作久福島県知事がどうしても同意しませんでした。日本政府は、「収賄額ゼロ円の収賄罪」でそれまでの知事を逮捕し、辞職に追い込んで、佐藤雄平氏を新知事にしました。以上のように、福島県知事という役職、福島県庁という組織は、東京電力よりも弱い権力しか持っていませんでした。

 

2 原発事故と福島県庁

2011年3月11日、福島県を含む広域を巨大地震が襲った時に、災害対策本部として使う予定だった福島県庁は、地震の揺れで損壊し、隣の小さな建物に臨時の対策本部機能を移しました。その後の20回以上の災害対策本部会議は、議事録も資料も何も公開されていません。25回目ごろからようやく、議事録が残るようになりました。

臨時の県災害対策本部には、衛星携帯電話が2回線あるだけだと言われています。その後少しずつ通信インフラが整備されていったとされていますが、この時期の公的な検証は行われていないので原発立地自治体との連絡、日本政府との連絡、東京電力との連絡、避難指示の伝達、などがどうなっていたのかは、まだ不明のままです。

3月14日夕方に福島県知事が「あわてないで指示に従う事。16日に県立高校の合格発表を行う事」を指示したことだけが公表され、福島県内のあらゆるメディアを使って繰り返し報道されました。

他方、東京電力テレビ会議のビデオによると、「『第一原発3号機の爆発では、健康被害は出ない』と東京電力から発表してほしい」という要望が福島県庁から東京電力に行われたことが記録されています。「そんな無責任な事を言えるはずがないので、政府の方から福島県庁を抑えてくれるように依頼しよう」という話でまとまったように、ビデオには記録されています。

福島県庁は、県庁所在地がある福島市、商業と工業が盛んな郡山市などを含む「中通り」には健康影響の可能性さえもない、と繰り返し表明しました。
映像としてみた人が多い、小学生や中学生のマスク着用・長袖長ズボンの登下校も、福島県庁が推奨や通達を出したのではなく、PTAの保護者からの要望で、市町村教育委員会が推奨や通達を出した結果です。

学校再開前の2011年3月末には、福島県知事は福島市内の大規模小売店の店頭に出て、「福島は『ふつうの福島』だ」と言いながら、福島県差農産品の「風評被害払拭」キャンペーンを始めています。また福島県知事は、避難指示区域を事故原発から半径20km以遠に広げることに反対し、避難指示区域外からの避難者が増える動きが出ないように繰り返し発言しています。

そのため、福島県内の2種類の地元新聞、NHKと4つの民間放送テレビ、NHKラジオとラジオ福島のようなメディアでは、「無償で避難を受け入れる」というような申し出を福島県内に流す事は、ごく少数の例外を除いてありませんでした。また、公共の組織だけでなく民間の会議場などを「県外避難相談所」として提供することさえも禁止しました。筆者の周囲では「県外から避難受け入れの呼び掛けがないという事は、私たちは見捨てられたという事なのか」というような言葉を何度も聞きましたが、実際には、福島県庁が妨害していたのです。

Click to enlarge
Click to enlarge

3 開沼博という「社会学者」

2011年、東京大学大学院学際情報学府修士論文として書いていた文章を元にした『「フクシマ」論 原子力ムラはなぜ生まれたのか』という書物が話題になった人物がいます。福島県いわき市で生まれ、25歳で東京大学文学部を卒業し、大学院に進んだ開沼博氏です。福島県と濃密な関係を持つ人間でないと理解しがたいことですが、開沼氏が生まれ育ったいわき市は、東京電力の原発がある双葉地区とは関係が薄い地域です。大規模商圏として考えるならば、双葉地区は宮城県仙台市の商圏に入り、いわき市は茨城県水戸市の商圏に入ります。いずれにしても311以前、開沼氏は福島県庁との接点はそれほど強くありません。
それがどうしたわけか、原発事故発生後、「福島の代表としてラジオやテレビ、イベントで話をする人」という存在になってしまいました。

なお、開沼氏の修士論文を書籍化したものに対する筆者自身の批評は複数あるのだが、とりあえず

《『「フクシマ」論 原子力ムラはなぜ生まれたのか』に対する個人的メモ》http://togetter.com/li/815862 でまとめてあります。

 

4 開沼博と福島県庁

311の後、修士論文が書籍化され、様々なメディアに取り上げられ、「報道ステーション」のコメンテーターとしても一度起用されています。が、発言の内容は「原発立地自治体が原発を受け入れたのは、その地域を存続させるための必然的な選択だった」とか「県外で言葉を発している人には、原発立地自治体のことはよくわかっていない」「原発反対派の人々は、地元の人々の気持ちを逆なでしている」など、反原発・脱原発の人々への反感が最初から際だっていました。

現在、開沼博氏の肩書は「福島大学うつくしまふくしま未来支援センター特任研究員」という呼称が先頭に書かれていることが多いのですが、同時に東京大学大学院博士課程在籍の博士課程学生でもあります。社会学「研究者」と呼ぶのは適切でしょうが、「社会学者」と呼ぶのは、過大評価だと筆者は感じています。

開沼氏の現在の言論の力点は、「眼に見える形での福島の復興」を福島県外に向けて、しかも福島県の外で発信する事に置かれています。他の多くの論者が、福島県内に立ち入るだけでどうしても目に付いてしまう「除染廃棄物」が詰まった「フレコンバッグ」に言及する中で、それには触れずに「ふつうの福島」を強調します。

前の知事の佐藤雄平氏と行動のイメージが重なる部分が他にもいくつかあるのですが、原発事故発生直後の混乱した避難所や、さまざまな不自由を抱えながら生活を続ける仮設住宅の避難者を訪問する姿が浮かびません。

現在の福島県知事も、知事選挙中や、就任直後は仮設住宅を訪問することはほとんどないようです。

筆者たちのような、県外への避難者に対しては、避難元が指示区域外か指示区域内かを問わず、福島県庁職員が直接状況を視察に来たりすることは、原則的にありませんでした。北海道のような遠隔地ばかりではなく、福島県に隣接している山形県や新潟県への避難者の状況視察も行われていません。
2011年事故発生直後は、受け入れ自治体側の判断などで福島県外からの原発事故による避難者に対しても住宅費用を支援してくれる例があったのですが、徐々にその避難元地域が限定されていき、2016年3月には原発事故による区域外避難に対する住宅支援を認めるのは、福島県内からの避難者限定になります。そして、福島県内からの区域外避難者に対しての住宅支援は、2017年3月で打ち切りになります。では、区域外避難者の帰還を受け入れる福島県内の住居があるかというと、ほとんど準備されていません。

2017年3月以後、区域外避難者は原則的に、次の3つから選ぶことになります。

ほぼ全額身銭を切って福島県内に帰るか。原発事故の被害者であると行政に認められない状態で福島県外で生活するか。著しく所得が低いことを証明して民間賃貸住宅への居住にたいする金銭的支援を2年間限定で受けるか。

このような状況になった理由は、環境副大臣が原子力規制委員会(行政から独立している科学的判断をするための組織)に対して「現在避難指定されていない区域は避難することが望ましいような状況か」と質問したことに対して、原子力規制庁(行政組織の一部)が「新たに避難する状況にはない」という返答を行ったことによります。なおこの文書のやり取りは、公的な組織同士がやり取りする文書の形式が整っておらず、誰がどのように検討した結果なのか、分りません。

原子力規制庁から出たこの文書を根拠にして、日本政府は「原発事故子ども・被災者支援法」による支援を大幅に縮小する閣議決定をしました。

政府の閣議決定を受けて、福島県庁も区域外避難者への支援を打ち切る方針を出しました。

開沼博氏は、そのような福島県庁の方針を「社会学者」という肩書で正当化する役割を担って、活動しています。福島県の方針とは違う意見の人から話を聞いても、それをメディアや集会で紹介することはありません。

例えば、311以前、開沼氏が無名だった時代にはその当時地元で活動していた反原発派にもインタビューしています。あるいは、311の後区域外避難している人にも少数ながらインタビューしています。しかし、そういう人達の声や意見は、まるで聞いたことさえないかのように無視します。

昨年から、日本国内で原発の再稼動が始まりました。が、それに対して開沼氏が反対の意見を表明することはありません。福島県庁も県議会も「再稼動反対」の決議や意思表示をすることはありません。

 

5 現在の「開沼博」という存在

以上のような経緯を経て、開沼博氏は、福島県庁の代弁者として、メディアに露出して「ふつうの福島」を宣伝して、「原発事故を乗り越えた福島」の強調を行うスポークスマンと化しているのです。
そして、非常に残念なことながら、福島県内在住者の多くは、開沼氏の言動に賛同しています。阪神淡路大震災の後、可能な限り震災の傷跡を忘れたがった人が多いように、福島県の人口の圧倒的多数を占める「避難していない人」は震災も原発事故も過去のことにして、忘れたいのです。
原発事故を過去のことにして、福島県外の人にも過去のこととして忘れてもらうための学問の側からの発言者。
それが、現在の開沼博氏の存在意義になっていると筆者は結論します。

 

In English: On Fukushima Prefecture and Hiroshi Kainuma: How Officials and Popular Academics Have Responded to Disaster Victims in the Wake of Tokyo Electric Power Company’s Fukushima Nuclear Accident

Toshinori Shishido

2 thoughts on “東京電力福島原子力発電所事故発生前後から現在までの、 福島県庁と開沼博氏達による被災者への対応”

  1. Pingback: 震災 | sangeet

Leave a comment

This site uses Akismet to reduce spam. Learn how your comment data is processed.