略奪行為の擁護論

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この記事の原文『In Defense of Looting』は2014年8月21日付 The New Inquiry に掲載されました。

略奪行為の擁護論

ウィリー・オスターワイル (Willie Osterweil)

 アメリカ史の大半において反白人至上主義の反対運動の中最も正当かつ効率的な策略は、略奪だった。

ミズーリ州ファーガソンで抗議を続ける人々の勢いが衰えを見せない中で、マイケル・ブラウンJr.が警官に殺されてからちょうど1週間を迎えようとしていた。その頃、ツイッターの一部やプロテスターに同調していた左派のメディアの大方は、略奪行為をする人々をきびしく批判し始めた。その中には、略奪行為や器物破損を行っているのは白人のプロテスターだけだ、というのもあれば、メディアにおけるプロテスターへのネガキャンを心配する声もあった。実際のところ、ファーガソンの街では略奪をする者に交じって、そういった行為を防ごうとする人々もいたようだ。これには私は賛同しないが、こうやって略奪を止めようとしていた人々も、このたたかい(運動)を心から支えるためにとった行動だったのだと思うし、この1週間の間あらゆる人々があらゆる場所でとった勇敢で美しい行動に敬意を示したいと思う。

ファーガソンの現場にいる市会議員のアントニオ・フレンチやニュー・ブラック・パンサー党などの政治家はそういった略奪行為を阻止しようとしているが、彼らは自らのリーダーシップを保持しながら反対運動の勢いを弱めることを目的としている。 その一方で多くの人々は、自らの道義を高めるためや政治的に優位な位置に自分を導くために略奪行為を批判している。私はこの批判を、プロテスターたちと略奪行為を実行している者たちへの連帯をもって、また警察による白人至上主義や植民地主義が人々を脅かしているファーガソンをはじめとする、アメリカ中のあらゆる場所で抑圧に対してたたかっている人々にむけて、そしてその人々との活気のある対話を望みながら、この文章を書いているのである。

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情報発信者としてのマスメディアは、それ自体が白人至上主義を高めるツールになる。警察が発表する内容を言葉どおり、批評することなく流している。今回のブラウン殺害の例のように、警察側の話は9回変わっているが、メディアはそれをそのまま報道する。そして「警官が関わった発砲」や「銃が発砲された」など 、黒人が白人警官に撃たれた場合には受動的な言い回しをよく使う。ジャーナリストたちは「両方の言い分を聞かなければ」と言いながら、結果的には実際にティーンエージャー殺害の場を目撃したコミュニティーの人々の明確な訴えや証言よりも行政側の不明瞭なリポートに権限を与えている。メディアは常に犠牲になった丸腰の黒人よりも連続殺害、虐殺を行う白人の側を尊重しているのだ。

このような略奪の批判を日々続けている人々の多くは、マスメディアの描くプロテスターの姿を見て行き詰まったような気持ちになることが多い。そして「プロテスターはみんな略奪者」というメディア描写を正そうとする。というのも、白人社会の中で、黒人が店で盗みをはたらく姿というものは人種差別主義を最も色濃く反映しているイメージのひとつだからだ。その結果「プロテスター全員が略奪をしてるわけじゃない。略奪者はプロテストと関係のない外部の人だ!」などといった表現を使い、アメリカ文化の中で、略奪者やこそ泥として描かれてきた黒人が経てきたレイシズムの歴史を塗り替えようとしている。まさに今、マイケル・ブラウンの人格を殺し、彼の殺害を正当化しようとしているファーガソンの警官が行っているこの歴史の積み重ねを塗り替えようとする行為だ。これは誠意のある正しい行為だと言える。

しかし、「善良なプロテスター」から「悪い暴徒」、または「非暴力活動家」から「暴力的な略奪者」を区別して、マスメディアが描くイメージを塗り替えようとするとき、そこでかならず黒人の若者=犯罪者という文脈が再生されてしまう。なぜなら、「黒人の若者」を「盗みをはたらく者」と「そうでない者」に分けて描写することは、結果的に、「プロテストにおいて略奪を犯す黒人」という不変の犯罪者である黒人のカテゴリーをさらに確固なものにしてしまうからだ。その結果、ディヴァイド・アンド・コンカー法(被支配者を分割することで統治を容易にする手法)などのレイシストで白人至上主義的なイデオロギーを繁殖させている。この言説は、われわれの連帯や防護に値しない種類の人々をつくり、さらには警察による暴力のターゲットに値する種類の人々をつくりあげてしまう。近頃の警察は自らをレイシストじゃなく、善良の人々だと建前を良くしているだけでなく、略奪や暴動は「外部の工作員」によって扇動されているという説明まで一生懸命している。その一方で、「非暴力」デモ参加者を賛美し、彼らが「安全でいられるように最善を尽くします」とまで言っているのだ。

メディアの白人至上主義的な文脈を修正することは、デモにおいて器物破損をする一部の人々を分離し孤立させ、警察の策略をそのまま再生することに至ってしまうこともある。もっとも、もしその人々が器物破損でもしなければ、メディアはこの問題自体に関心を払わなかったかもしれないのにも関わらず、である。ファーガソンでの抗議の2日目にコンビニ「クイックトリップ」で略奪し火をつけた人がいなかったら、ファーガソンは世界の注目の焦点になっていただろうか?その答えはわからないが、これまでアメリカ中で行われてきた警察の暴力に対する非暴力行動の数々がどこのマスメディアにも取り上げられなかったことを考えると、答えはノーかもしれない。ニューヨークで黒人の少年キマニ・グレイが警官に殺害された時、メディアの注目を一気に集めたのは追悼集会の後に起こったドラッグストアのチェーン店デュアン・リードでの略奪があったからだった。メディア自らの歪んだやりかたが、問題の核心に注目を集めるために役に立つのは略奪で、暴動である、ということを教えているのではないか。

とは言っても、目的はマスメディアの注目を集めることではないし、マスメディアにどういう書きかたをしてもらうかを操作することでもない。どんなに平和的で穏やかなデモであっても、マスメディアは常に警察筋や白人至上的な話を軸に語るのは明らかだ。ゴールは、あくまで正義だ。ここで、アメリカ社会においての市民運動 (特に非暴力行動と公民権運動において) の勝利の功績を簡単におさらいしておく必要がある。そのために、この歴史のなかで歪められて一般化されてきた「公民権運動は非暴力の勝利」というイメージを直しておかなければならない。

アメリカ合衆国と呼ばれる大陸の400年間にわたる野蛮な、白人至上主義的、植民地主義的な虐殺史のなかで、ほんのわずかな時間、明るく美しく輝く希望の瞬間がひとつだけある。それがアメリカ公民権運動だ。私たちは今もこの時代が生み出したリーダーやその理論、イメージの影のなかに生きているといっていいし、現在進行形の活動に関わる人にとって、この運動の軌跡を見落としてしまうということは哲学的にも組織体制にも危険をともなうだろう。それにしても「公民権運動は非暴力がゆえに勝利した」という概念が義務教育からはじまり社会のすべての場所において、大統領や大学教授や警察によって私たちの頭にこんなにも深くねじこめられているのはなぜだろう?ここで大事なのは、白人支配層がこぞってこの概念を信じているということに不信感をもつことだ。

公民権運動は、まったく非暴力というわけではなかった。この運動の中で最も勇気と感銘を与えてくれた数々の活動家を思い起こすとき、そこには非暴力を続けた活動家もいればそうでない人々も多くいたのだ。例えば、アラバマ州バーミンガムの活動家たちは何ヶ月にもわたる、大部分が非暴力だった運動を経た末にようやく、ジョン・F・ケネディに公民権法の制定(人種隔離各法の廃止)をよびかけるスピーチをさせるところまでこぎつけた。しかしその数ヶ月間のあいだ、バーミンガムでのキャンペーンは、決定的に非・非暴力に発展して行ったのだ。[1]プロテスターたちは警官やユージーン“ブル”・コナー(バーミンガム警察署長)に対して石を投げ、窓ガラスを壊し、抵抗を続けていった。バーミンガムでのあまりにも不穏な状況を見たロバート・ケネディは、これがアラバマ州の他の街や南部各地へ広がるのを恐れて兄のジョン・F・ケネディに公民権法の設置を呼びかけるスピーチをするよう促し、そしてこのスピーチの功績は後に語り継がれることになる。

もちろんこれは、公民権法にたどり着くまでの長いあいだの非暴力行動の努力がなければ達成されなかった功績だ。しかし同時に暴動という脅威の出現によってこそ、ケネディ大統領の動向を決定的なものにしたといえるだろう。当時はマルコムXにも、キング牧師にも、武装したボディーガードがいた。公民権運動の時代全体にわたって、非暴力市民的不服従はかならず大規模な暴動と隣り合わせだった。その中でも有名なものは、カリフォルニアで1965年に起こった「ワッツ暴動」だが、他にもアメリカ全土の各地で暴動は起こっていたのだ。それでも「公民権運動は、非・非暴力行動があったにもかかわらず、成功した」などと唱えることは、ごまかしだ、という他に言葉がみつからない。そうではなく、非暴力と非・非暴力が混在していたからこそ、公民権運動はその目的を達成することができたのではないか。忘れてはならなのは、近年になって白人支配層にまで影響をおよぼすことが可能になった非暴力の提唱者キング牧師を殺したのは、まさにこの白人権力機構なのだ。

公民権運動によって個々の闘争に勝利はあったものの、長期的な闘いには負けたと言っていいだろう。黒人の大量投獄や黒人白人間の不平等において、私たちの社会は公民権運動が始まった頃と変わらない状態にあると言えるし、アメリカのいくつかの街では1960年代よりもさらに人種隔離がすすんでいる。「色盲な」リベラル達がいくら人種偏見はなくなったなどと主張しようとも、人種問題に未だ正義はみえず、白人至上主義は覆されることなく、人種差別には終わりがみえない。それどころか、 反黒人的なレイシズムこそがアメリカを形成する基盤となっている。それはこのアメリカという国の建国は「所有する権利」によって成り立っていて、搾取、盗用、殺人、そして黒人の奴隷化をなくしては、いかなる所有権も富も存在し得ないからである。

ライターのレイヴェン・ラキアが「アメリカでは、ものの所有権はいつも人種と重なる」と書いているのはその通りであって、 「肌の黒さ」に基づく「人種」というコンセプトはアメリカでいう所有権のコンセプトと同時に造り出された。これは奴隷制(奴隷として黒人を所有する権利)があってのことだ。アメリカ植民地のはじめには「家財奴隷」は「年季奉公」よりはるかに稀な事例だった。もっともこのふたつの制度の違いも微妙なものだったが、その中にはアイルランド人、フランス人、ドイツ人、イギリス人もいた。その頃から奴隷ではない黒人(自由民)も少なからず存在してはいたが、17世紀を通して年季奉公と奴隷の中から肌の色のうすいヨーロッパ人が姿を消していった。この理由のひとつは、植民地においての生産力がヨーロッパ人によるそれよりもはるかに速く発展したために、自国の市民を雇うための人員コストが一気に跳ね上がってしまったことにある。当時のヨーロッパ人 (どんなに貧しい者であっても)の賃金と比較すると、凄まじく合理化された太西洋横断によって取引されるアフリカ人奴隷を雇うほうが、遥かにコストを押さえる事ができたということである。

次第に、「白人と黒人」の差異はそのまま「奴隷化する者とされる者」の差異として築かれていった。つまり奴隷制度初期における「ブラックネス(肌の黒さ)」の定義は「所有物となり得るかどうか」を決定するためのものだっただろうと言うことができる。たとえば、誰かが実力で奴隷を解放するためにグループを結成したとしよう。そのグループは間違いなく「略奪者」と呼ばれるはずだ。(もしこの言葉が当時広く使われていたとしたら、反奴隷制度の運動家だったジョン・ブラウンと奴隷解放の指導者ナット・ターナーは共に「略奪者」として攻撃されていたに違いない。)もちろんこの歴史と現状との比較によって、奴隷解放と薄型液晶テレビの略奪が道徳的に同価値のものだ、と冗談でも言える訳はないが、ここでのポイントは、アメリカ史の大半において反白人至上主義に反する運動の中の最も正当かつ効率的な策略が、まさに略奪だったということである。 奴隷の黒い人影が自らを解放する姿、白人にとって気味の悪いこの光景こそが、アメリカ史最初の黒人略奪者のイメージなのである。

ツイッターである時期、皮肉をこめたハッシュタグ #suspectedlooters(略奪容疑者)というのが広がった。そこに投稿されている画像にはヨーロッパ人、奴隷所有者カウボーイ白人による文化の盗用が描かれている。同じように、「もともとアフリカ大陸で白人による略奪が起こっていなければ、今のアメリカには黒人なんて居ないのに」というツイートも多く見られた。これらは「略奪」の論議を覆すパワフルな声明であり、「有色人が店で略奪をするのは、かれらが時代を経て盗まれてきたもの —古代からつたわる文化、言語、そして今日の子ども達が外を歩くための基本的な安全の権利—を奪い返しているのだ」というレトリックの反転は、きわめて重要でその政治性には賛同するが、ここでの議論のために、その白人や奴隷所有者がやっていたことは単なる略奪行為ではなかった、と主張したい。

奴隷制はあまりにもひどい無秩序のもとで犯された殺人であり、盗みであり、蛮行だった。それでも奴隷制と植民地支配が機能した理由のひとつは、「土地の所有」に関する権利の範囲に新たな領域とカテゴリーが導入されたことである。ひとつに、アメリカの支配者は、先住民の人々から土地を略奪しただけでなく、法の下で武力を使ってさらなる土地の略奪が可能になるシステムをつくった。また、アメリカの支配者は、アフリカ大陸の人々から命、歴史、自由をすべて略奪しただけでなく、彼らの労働力を販売可能な商品にしあげた。家財奴隷はもっとも残忍で暴力的な形の強制労働だが、過去150年のアメリカ史が示すのは、法、暴力と賃金を使ってひとつの民族全体を支配下におくことが可能だ、ということだ。

ここ数日間、あるインスタグラム・ユーザーがファーガソンのコンビニ「クイックトリップ」で収めた人々による略奪の模様が広く共有されている。この動画にはユーザーによって「自分たちの街を自分で破壊してる奴ら、とか言われてるけど、 だいたい、この街に自分たちのものなんてひとつもない!」とコメントが添えられている。これは最も重要なことで、アメリカにあるほとんどの黒人街の商店は大型チェーン店とファストフード店で占められていて、その集中率は非黒人街よりもはるかに高い。一人当たりの平均年収は21000ドル(約250万円)で、そこから35%の白人人口を除くとさらに低い数字になるだろう。ファーガソンの一般市民にとって「自分たちのクイックトリップ」なんて言葉が存在しえるだろうか?それどころか、そもそもコンビニのチェーンや大手のファミレスが地域やコミュニティーの一部になんてなりえるだろうか?大手企業がコミュニティーを破壊していると痛烈に非難している白人のリベラル層は、実はこの大企業による支配のもたらす結論を、暴動というかたちで訴える人達を見て、恐怖をいだいている白人リベラルと同じ人たちなのだ。

略奪は「暴力的であり、政治的機能がない」という不明瞭なイデオロギー は、支配階級によって丹念につくりあげられ、主張されてきたものである。この主張こそが、支配階級の権力の源そして極みである所有権を、暴力的に存続させているのだ。略奪行為が富裕層にとって極めて危険な行為なのは、略奪を目撃する者たちに、直観的に、「私有財産」とは何なのかを気づかせるからである。それは、国家による致死的武力の行使に支えられた、内容が乏しく不確かな単なる構造でしかないのだ。暴動によって獲得された空間で人々が略奪するとき、警察が居なくなったそのテリトリーで、「所有する/される」というコンセプトが破壊され、タダでモノが手に入る、という構造の正体がいとも的確にあらわになる。

もう少し具体的にいうと、略奪は実用的にも戦略としても役に立つのだ。略奪に疑念をもつ人はたいてい、「略奪者はここぞとばかりに、わがままに、過度に振る舞っている」と疑うこともなく信じている。しかし、この機会を利用して自分の生活状況を改善し、くらしを楽にすることのどこがいけないのだろう?ハナ・ブラックはツイッターでこうつぶやいている。「警察っていうのは、みんなが略奪をできなくするため、つまり、立派なものをタダで手に入れられないようにするために存在している。だから警察に対して抗議する時に略奪することになんでこんなに混乱するの人がいるのかわかんない。」立派なものを無償で手に入れることが不道徳だと信じる場合、そして現在の所有権の制度(白人至上主義であり、移住者による植民地主義である)が正しいと思える場合にのみ、略奪はいけない、などと道徳的なことをのべることができるだろう。

さらに、「有色人種はどん欲で怠け者だ」とほのめかしながら略奪の話しを展開する人がいるが、実際はその正反対だということに気づくべきだ。略奪することとはとりかえしのつかない結果をまねきかねない、苦労と危険を伴う行為なのだ。そのうえ略奪者たちが襲うのは、せいぜい裕福な所有者の黒字に含まれるものだけ。特にファーガソンの「クイックトリップ」などのチェーン店の所有者たちは、1週間のうちひとりあたり40時間という時間を何千人もの従業員から盗み、その従業員はというと、せいぜい1週間命をつなぐかつなげないか程度の稼ぎしかもらえないのだ。

そして「略奪者は盗んだものを独り占めしている」という推測も上に書いたことと同じぐらいレイシストで、空論だ。貧しいコミュニティーや有色人種コミュニティーは裕福な白人コミュニティーよりも多くの相互扶助や生活支援を実施している。もっとも、そうすることが必要だからである。略奪をしている人は、例えば、毎日生きるだけでギリギリな人かもしれないし、1週間のうち1日を略奪に使うことによって残りの6日間は働かずに「非暴力」抗議活動に参加できるかもしれない。さらに、自分の家族を養ったり、近所に住む老人を世話しなければいけない人かもしれないし、その老人は自分で働いたり略奪したりできるわけもなく、生活保護に頼るしかない人かもしれない。略奪者によっては、普段は自分では買わないもの(高価な酒など)を奪っているのかもしれないが、物を盗むことで、賃金労働を通して日々の生活をつなぐことよりも直接的で即効的にくらしの困難を解決する方法を提供し、それが物理的にコミュニティーを支援している、といえるのではないだろうか。

近代のアメリカにおける警察力は、逃亡をはかる奴隷を監視するところ、つまり奴隷所有者の所有物がなくならないようにすることから進化したものである。言い換えるならば、アメリカの警察の歴史は、 黒人による脅威を暴力的に防ぐことで守られてきた白人の所有権の歴史である。警察の暴力に反対するデモで略奪が起きるとき、略奪者たちはデモの政治的機能を無視しているのではなく、警察の暴力というテーマから話をそらしているわけでもなく、いつもレイシストな記事を書く用意ができているマスメディアを煽っているわけではない。略奪者たちは、警察、私有権、そして白人至上主義という、問題の本質に真っすぐに向かっているのである。

ファーガソンの反抗者たちと連帯を!マイケル・ブラウンの死に報いを!

(日本語訳:Sloths Against Nuclear State)

[1] かさばるような表現だが、非・非暴力という言葉をあえて使うことにする。というのも、非暴力主義者は、ガラス窓を割ること、ゴミに火をつけること、さらには道路をバリケードを作って塞ぐことさえ「暴力的」とみなす事が多い。以前、「Fuck the police! (お巡りなんて糞食らえ)」とコールをしていた黒人少年たちにむかって「暴力的だ!」と言い返していた白人のプロテスターがいるのを目撃した事がある。「暴力的」といっても身体に対する直接的な打撃だけでなくいろいろな形態があるが、マイケル・ブラウンを襲って殺害した「暴力」とデモ参加者が道路に障害物を放置する「暴力」の両方の意味を含んでいるこの言葉は、ここでは到底役立つとは思えない。もっともデモの最中などには、困ったことに、たまたまその辺にいた警察やたまたま目撃した非暴力主義の誰かが「これは暴力的だ」といえば「暴力」になる、という場合がよくある。この役立たずな定義づけは、たとえばガラス窓を壊す事を「暴力」と呼ぶことによって再生され、非暴力イデオロギーのアイデアではなく形式のみを誇張した議論に話をそらす事になる。なのでここでは「非非暴力」という言葉のほうがしっくりくる。

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