adrienne_abolishionism

Abolishionism After 3/11

by ADRIENNE HURLEY

Photo: The Stimulator on flickr
(Scroll down for the original text in English)

3/11以後の全廃論

エイドリアン・ハーレー

2011112日、ニューヨーク日本領事館前で、まる1日かけて抗議行動が行われた1。これは、ちょうど同じ時期に東京の経産省前で原発の廃止と福島からの子どもの避難を求めて座り込みを行っている女性たちに連帯した行動であり、そのよびかけによってニューヨークの街頭にも人々が集まった。さわやかに晴れた秋の日の午後、その連帯デモで活動家の殿平有子は「日本のテクノロジーにたいする崇拝的な観念を捨てよ!」、そして「災害は未だに続いているのだ!」と呼びかけた。

Stimulatorによるドキュメンタリー、『世界の終わりだけど、気分は上々』のインタビューの中で、活動家の樋口拓朗が述べるところによると、日本の脱原発運動の「主なゴール」は、無論「すべての原発を廃止すること」だが、それにとどまらず「問題は原発だけではない」と加える。さらに樋口はこう続ける:「われわれの文明が原発を造り出した。同じように、文明はプルトニウムさえも造りだす。だから原発事故が起こったとき、僕は、人間の築いた文明こそがこのような惨事をもたらしてしまったのだ、ということが解った気がした。これはとても奥の深い問題だ。僕たちは、生き方そのものを変えなければいけない。」[http://submedia.tv/を参照]

樋口が言及する「文明」と殿平が直面せよと訴える「終わらない災害」、この二つを考えるとき、彼らの運動と我々の運動を隔てている国境というものはここでは認識に値しない。つまり、国境たるものは拡散する放射能を止めることも、勾留することも、凌ぐこともできないのだ。放射性物質を含む瓦礫が日本中に拡散されようとしている中、3月11日以降北米の西海岸では幼児の死亡率は35%上昇したと伝えられている。北米の西海岸では、アルバータ州にあるオイルサンドから摘出される「ビチューメン」を、アメリカ南部のメキシコ岸やアジアにむけて送り出す計画が進められようとしているし、ニジェールでのウラン採掘の壊滅的な人間と環境への影響が示すように、樋口がのべた「我々の文明」によって、われわれの体は病に冒され、扼殺されている。そして同じことが、地球自体にもなされている。

3/11後の日本の状況が私たちに知らせているのは、この危害は、すでに抑圧されている人々、支配されている人々、傷を受けている人々のあいだだけにとどまるものではない、つまり呪いはひな鳥のようにねぐらへもどってくる、ということだ。レスリー・マーモン・シルコウの『死者の暦書』のなかに見られる、アメリカ大陸の被支配層がたちあがり白人による文明を打ち倒すという預言的描写や、星野智幸の『ロンリー・ハーツ・キラー』の中で描かれている日本の天皇制の廃止、そしておそらく国家の終焉が実現するのは、もう時間の問題かもしれない。ここで問うべきことは、どれだけの時間のなかで、そしてその限られた時間のなかで私たちは何をするべきか、である。一体わたしたちはどういう生き方をすべきか?

われわれの関わる闘争や運動の中で、それぞれ言葉遣いの違いはありながらも、多くの人が、地球の維持が危機にある、という意識の優先とその切迫した必要性のもとに、全廃論のポリティクス、運動、文化に目を向けている。原発、刑務所、アパルトヘイト、資本主義、権威主義などを全廃する、という欲望と意思は、これらの制度、機構、産業がもたらしている窮乏、危害と暴力に依拠している。さらにこのような制度は、まさにそれがもたらす暴力に依存している。多くの刑務所廃止論者がのべているように、今日の刑務所制度全廃のためには、奴隷制度の全廃の努力をさらに進め、最終的に完了することから始めなければいけない。そして資本主義、植民地主義、家父長制、白人至上主義そして原子力の廃止もまた、サブ・コーソが呼ぶ「機構」から、資本主義、白人至上主義を含む機構から、解き放たれるための、いまだに完了していない使命である。だからこそ、全廃論は、虐殺、環境への殺戮などわれわれに危害を与えるものを政治的に論理化し、排除する機会をわれわれに与えてくれるのである。

まず、3月11日以降の6ヶ月間で私が出会った全廃連帯運動とその潜在力について簡単にたどりたいと思う。

3月、私はカリフォルニアのリヴァーサイドという町で「批判的民俗研究と虐殺の未来:開拓者植民地主義/異性愛的家父長制/白人至上主義」というコンファレンスに参加していた。1日目、全廃論者で埋め尽くされたその会場で、主題発表者として発言した一人はブリティッシュ・コロンビア州・ビクトリア大学の先住民統治プログラムで教授をつとめる ワジヤタウィンだった(フランクリン・ロペスの映画「END:CIV」でインタビューを受ける彼女の姿を思い起こす人もいるかもしれない)。 ワジヤタウィンはスピーチの冒頭で、「この大学がここに存在できるのは、先住民の苦悩の結果であり、先住民が苦しんだからこそ、私たちがこのコンファレンスを開催できるのだ、ということをよくおぼえておかなくてはなりません。」とのべた(これは私が教えている大学ーー奴隷を使った利得者によって設立されているーーに関しても同じことが言える)。開拓植民地主義と白人至上主義を廃するための運動は、「Occupy Together (共に占拠を)」運動と信義を共にする、地元の小さな集会とデモから生まれているが、「Occupation (占拠/占領)」という言葉の持つネガティブな意味を拒否し、そのかわりに脱植民地化のアイデアに運動をあてはめている。これはまさに「全廃論的アプローチ」である。後にのべる戦略的方向性への予示として、ここでこの言葉を使っておくとしよう。

ワジヤタウィンがリバーサイドで発表した3月10日の時点で、日本では3月11日をまわっていた。発表が始まったのが夜の9時半ごろだったので、日本ではすでに午後にさしかかる時刻で、発表の最中に地震が怒ったのだ。ワジヤタウィンは、「社会崩壊時における専門職業化の危険性」というフレーズを用いて、地球の危機について話した。そして何が維持可能で何がそうでないかを考えるよう、私たちに挑戦した。石油漏出、森林皆伐、空から落ちてきた何千羽もの死んだ鳥、海岸に打ちあげられた何百万匹もの魚、それら地球崩壊の映像を次々と見せながら。そして彼女は、これらの荒廃に責任のある文明は、もうすでにバラバラに砕けているのだ、と訴えた。私は、おそらく周りの参加者もそうであったように、われわれに害を及ぼすこの力をできるだけ早く廃止する運動をどう円滑に進めるか、という大きな挑戦状をたたきつけられ、目が覚める思いがした。そして彼女の発表が終わった後に、東北大地震のことを知らされたのだった。

コンファレンスの最終日、私たち参加者はすでに津波の被害と福島第一での爆発のことを聞いていた。その日の主題発表者の一人はコロンビア大学の人類学部で教授を務めるオードラ・シンプソンだった。彼女は「コロンバスのはらわた」について話した。「彼のはらわたが、今私たちの存在するところです。」つまり、「私たちの存在は、彼の航海や歴史的経緯からではなく、彼の内側にある、私たちの居る場所から始まったのだ。」さらに彼女はこう続ける:「私たちはこのマザーファッカーにみんなまるごと摂取され、そして今、彼の内蔵の中にいるのだ。」それならば、その内側から手探りで抜け出すことがわれわれのなすべきことであろう。この発表は、内側から外に向けて全てを廃止すること(この場合、今われわれの居る場所の全廃)をわれわれに呼びかけるためのものであったと私は考える。シンプソンの定式に従えば、窮地に追い込まれたわれわれは全廃論者の牢やぶりとして行動するべきであり、そしてこの解放運動は、サブ・コーソが言う「機構」ーー遠い昔に私たちを呑み込んだ身体、私たちがそこで生まれた身体ーーの破壊を必然的に必須とするであろう。

このコンファレンスは刑務所廃止運動をするクリティカル・レジスタンスのメンバーであり、カリフォルニア大リバーサイド校で民俗学部長をつとめるディラン・ロドリゲスの発表をもって幕を閉じた。ロドリゲスは、民俗学の文脈にからめて次のような問題提起をした:「団結や欲望を想定することから離れることのない政治的、知的蜂起を受け入れること、それは何を意味するのか?」オキュパイ・ウォールストリートをはじめとする占拠運動、脱植民地化運動が活発化する中、その意味はますます明瞭になりつつある。たとえどこにいようとも、闘い苦しみながらも生きたい道を、生きようとする行動を通して、わたしたちは、機構、コロンバス、あるいは文明の死の欲動に対抗しつつ動く全廃主義の文化的実践とバイタリティーに触れることができる。

昨年の春PM Press(サンフランシスコの出版社)のウェブサイトで、公開間近のフランクリン・ロペスの映画「END:CIV」について読んだとき、私の頭にはワジヤタウィン、オードラ・シンプソン、ディラン・ロドリゲスらによる発表の記憶はまだ鮮やかだった。この映画は、私が深刻に考える日本の出来事にまつわるいくつかの問題に立ち向かっていた。そこで映画のサイトを調べたところ、「END:CIV」はすでにいくつかの言語で字幕が付いていることを確認できたが、日本語字幕がまだなかった。数ヶ月後、島大吾が素晴らしい日本語字幕をつけ、同年の10月には新宿のインフォショップ、Irregular Rhythm Asylumの成田圭祐がロペス監督を招いて東京、千葉、福岡と大阪を回る日本語版の上映ツアーを企画した。優れたオーガナイザーであると同時に目ざましいアーティストでもある成田は、この機に『END NUKE POWER & END CIV 』と刻まれたステンシルを制作した。それはわたしたちに、全廃への道、そして新しい全廃論者たちの連帯への道がすでに作られていることを示すものだった。来日ツアー後も日本各地の数十カ所でこの作品の上映とディスカッションが行われ、さらに北米各地をはじめとして同様のイベントが開かれている。「END:CIV」が観衆に求める、全廃論をとりまく対話への探求は、もうまぎれもない事実として広がっている。

ここで、全廃論というものがどのようにして生まれるか、についての一例を述べたい。

犯罪化と量刑政策の拡大が、さらに多数の投獄/監禁を生み出しているという圧倒的証拠にもかかわらず、日本の一般市民は、北米のカウンターパートと同様、「安全保障」の名の下に「犯罪に厳しく」という制度を支持するよう手なずけられている。こうして国家は、日本において、不起訴の状態で最大23日間の勾留を人々に強要することができる。さらに、日本、アメリカ、カナダのような国家では、もともと国や公共機関から援助されていない若者を次々と投獄し、施設へ収容し続けていることも今や明確である。貧困、抑圧状態の犯罪化は、北米でもそうであるように、非常に露骨に、日本国家の持続のために機能してきた。「犯罪に厳しく」のポリシーは、行政の言説のレベルでは公共の安全と安全保障をうたっているが、そこで国家による少年層の扱いを考えるとき、このような政策は、単に、蜂起と抵抗を未然に防ぐために、予防的な無期限の勾留という警察の戦略選択肢をもっぱら拡大するものである。さらにこの実践は、 政治的分析を発展させ、組織化する前に、反乱あるいは抵抗の恩恵を最もうける民衆を文字通り、見分け、黙らせ、中立化しようとする。

言い換えると、投獄や警察行為は、機構 、コロンバス、資本、そして国家の安全保障のために機能しているのだ。トランスセクシュアルの若者、先住民の若者、部落出身者の若者、在日の若者、貧しい若者、移民の若者、ホームレスの若者、有色人種の若者、虐待を受けた若者(…)このどのカテゴリについても、監禁されている(または刑事司法制度に「接触」を受けている)若者たちの生存のために欠かせない解放闘争や、抵抗や叛乱のかたちが示す可能性に限度はない。こうした文脈の中でこそ、全廃連帯運動は、はじめて本当の戦略的、戦術的な利点を得ることができるのである。

全廃論は、私たちに予言師になるよう求めているわけではない。このところのオキュパイ・トゥゲザー運動のなかで、未来への計画あるいは要請に関して「明確さの欠如」が頻繁に議論されていた。明確さや次に来るべきものを問うことは、全廃論を通して語るならば、私たちが拒否してよい政治的課題である。次に来るべきものに何が影響を及ぼすか、全廃論運動を通して学ぶこと山ほどあるはずだ。もし警察や刑務所、負債、学位などというものがなかったら、今に比べてどれほど多くのことを理論づけたり、行動に起こすことができるだろう。オードラ・シンプソンの形象をふたたび借りるなら、コロンバスの内側から手探りで抜け出すことができて初めて、法廷や警察や初歩的自己防衛にエネルギーを注ぐ必要なく、わたしたちにできることの可能性をみいだし、 ともに議論、行動をはじめることができるのではないか。私がここでのべていることは、私たちが現在できるようになった生き方までたどり着くのに、今日までアナキストや反権威主義者などが経てきたとてつもない努力に反論したり、それを萎縮したりするためのものではない。ここで私が述べたいことは、今われわれが居るマザーファッカーのはらわたの中から出ない限り、機構を取り外さない限り、先のことは見えないし知ることもできないだろう、と認識すべきだ、ということである。

では、刑務所廃止論がたとえば原発やその他の廃止論におよぼす影響とは何か?刑務所制度によって、再生産活動への投獄の影響(投獄により拒まれる再生産活動はもちろん、数世代にわたる投獄が再生産活動にもたらす影響も)を含めて、あらゆるレベルでの予防的な規制や投獄が行われている。こうした攻撃的な威力拡大に目のないグローバル刑務所体制は、さらに多くの民衆を犯罪者にしようと日々模索している。ここで一例をあげるならばまず、関係性の犯罪化をが上げられる。アメリカにおけるギャング強化懲役条項(そしてテロリズム強化条項)と、日本における虞犯性の認定(家庭裁判所が、犯罪歴のある者と関係のある少年少女、または虞犯性が見られるー家出やコミュニティーからの脱出の経験のあるー少年少女に対して介入できる制度) がある。日本の家庭裁判所は、北米のカウンターパートと同じように、プロファイリングを通して、非行に走る可能性がある若者たちと「接触」することが出来る。また日本の家庭裁判所は、犯罪的行為に関わる「可能性が有りうる」者と判断された場合、その若者を裁くことができるのだ。法律がより多くより若い層の少年少女を裁けるように拡大されるにつれて、懲役限度(21世紀の始まりで、最大で3年間まで)にまつわる制度も廃棄され、若年層を大人の犯罪裁定の対象にしやすくなっている。ここに引用するが、いくつかの表現が、その性質を赤裸々に語っている:

「少年法の下、家庭裁判所は次の虞犯事由にあてはまる少年に対し管轄権を有する。虞犯事由(ぐはんじゆう)とは、次に掲げる事由をいう(少年法313号イ~ニ)。

イ)保護者の正当な監督に服しない性癖のあること。

ロ)正当な理由がなく家庭に寄り付かない性癖のあること。

ハ)犯罪性のある人、若しくは不道徳な人と交際し、またはいかがわしい場所に出入りすること。

ニ)自己または他人の徳性を害する行為をする性癖のあること。 2

勾留中の少年が将来、まさに(文字通り)無能化されない場合、いつか国家(または機構)に対し及ぼすかもしれない挑戦の名において拘置されるということ、その場合の「脅威」なるものについて考えることで、少年と刑務所の問題を「罪と罰」(或いは「道徳」と「違反」など)の語り口から解放することができる。そしてそれらの問題をあるべき場所ーー先述のように、自律と自己決定のための社会運動や闘争といった文脈の中ーーに位置づけることができよう。言い換えるならば、先住民の子、黒人の子、トランスジェンダーの子、貧しい子、移民の子どもたちは、国家に対する脅威や抵抗力にならないように、監禁されているのだ。彼らの「脅威」は、われわれの安全を脅かすものではない。機構、コロンバス、文明、その名称はともあれ、それらの安全を脅かすものにすぎない。原子力発電所がそうであるように、刑務所は機構を豊かにし、コロンバスを潤す。だからこそ私は全廃論連帯運動をはぐくみ、拡げたいと願うのだ。

すでにわれわれ多くにとっていやというほど明快なのは、リベラルなグリーン資本主義が、原発全廃運動を確固不動なものにできたかもしれないラディカルズムの可能性の首を絞めているということだ。グリーン資本主義はラディカルな可能性を出し抜き、運動の力を、国民国家(または機構)を価値づけるものごとーーショッピングや消費によるアクション、国家高官へのアピール、選挙制政治との連携などーーに流出させている。自分たちの運動力を

我々が消滅を望む力を構造化し、 または少なくともそれに奉仕し服従する諸力に、反復強迫的に、譲り渡してしまうかわりに、全廃論連帯運動は、そのようなわずかに改正されただけの大量虐殺よりも、はるかにすぐれた維持可能な方法を求める場を我々に与えてくれるのだ。

たとえば、57日の東京での脱原発デモで標的逮捕された人々の支援のために立ち上げられた「救済委員会」が、警察に対し全廃的姿勢で取り組んだことは賞賛されるべきである。委員会は、仲間の釈放の保証のために動いている最中であっても、漫画や声明文の作成を通して同時に国の刑事制度を認めない、という姿勢を明確に示した。仲間の釈放を要求し、かつ、それを実行する過程にある制度に対して批判をやめようとしなかった。遠くモントリオールから見ても、私にとって日本の3/11直後の数ヶ月間におけるまさに急進的な瞬間であるように映った。もちろん、更生保護委員会への陳情や釈放のためには弁護士や刑事制度との関わりは欠かせないが、必ずしもそれら制度への批判を押し消し明け渡す必要はない。救済委員会のアプローチによってやる気をなくしたリベラルもいるかもしれないが、しかしに同時にそれは、さらに維持可能な連帯へと運動の幅をひろげる道を開いたであろう。私は救済委員会のひとりひとりに感謝したい。刑務所、警察に対する全廃論的アプローチなしには、我々の解放運動のどれもが国家によって家畜化されてしまうだろう。飼い馴らされる気配を明らかに感じながらも、それを越える全廃論の連帯の気配も確固たるものとしてここにあるのだ。

 

PDF (日本語)

エイドリアン・ハーレー:モントリオール在住。マッギル大学の東アジア学部、教育総合分野学部にて教鞭をとる。『Revolutionary Suicide and Other Desperate Measures: Narratives of Youth and Violence from Japan and the United States』(2011)の著者、そして星野智幸『ロンリーハーツ・キラー』(2009年/PM Press出版)の英語訳者である。

 

———————————-

 

Abolitionism After 3/11

Adrienne Hurley

On November 2nd, an all-day demonstration took place in front of the Consulate General of Japan in New York City.1 People gathered throughout the day in solidarity with the women and their allies sitting in at the Ministry of Economy, Trade, and Industry in Tokyo to demand an end to nuclear power and the evacuation of children in Fukushima to a safer location.When she spoke at the solidarity demo in New York on that brisk and sunny autumn afternoon, activist Yuko Tonohira urged the crowd to reject celebratory notions of “Japanese technology” and remember “the disaster is still going on.”

In an interview with the Stimulator for It’s the End of the World as We Know it and I Feel Fine, activist Takurô Higuchi said the “main goal” of the anti-nuke movement in Japan is, of course, “to stop all nuclear power plants,” but he added, “the problem is not only nuclear power plants.” He explained, “We have to note that our civilization produced nuclear power plants. It also produces plutonium. So when the disaster happened, I felt like this is a kind of answer … that the civilization that human beings created ended up like such a disaster. This is a very deep problem. We have to change how to live.” [See: http://submedia.tv/]

The civilization of which Higuchi spoke and its ongoing disasters, which Tonohira urged us to face, can’t be made to respect the borders where our own movements are policed. Such borders cannot stop, detain, or stave off the spread of radiation, for example. Radioactive rubble from Fukushima is being distributed across Japan, a 35% increase in the rate of infant mortality was documented after March 11th on the West Coast of North America, plans are underway to transport bitumen extracted from oil sands in Alberta to the Gulf Coast and Asia, and the devastating toll on health and the environment due to the mining of uranium (for France and Japan) in Niger make clear that what Higuchi calls “our civilization” is making us sick, is killing us – and doing the same to the planet.

What the post 3.11 situation in Japan signals to us, among other things, is that this harm cannot be contained to only the already oppressed, colonized, and battered communities, that chickens always come home to roost. The fictionalized prophecies of Leslie Marmon Silko’s Almanac of the Dead, in which the oppressed of the Americas rise up to abolish white civilization, or Tomoyki Hoshino’s Lonely Hearts Killer, which imagines the end of the Japanese emperor system and perhaps the state, seem only a matter of time now. The question is: how much time and what of the meantime? How do we want to live our lives?

Although the specific words we use in our respective struggles and movements might differ, there are lots of people who, out of necessity and out of an urgent awareness that our survival and the survival of the planet are at stake, are turning to abolitionist politics, movements, and cultures. The desire to abolish nukes, prisons, apartheid, capitalism, and authoritarianism, for example, comes from the immiseration, harm, and violence emerging from these systems, devices, and industries – and upon which they rely. As many prison abolitionists have noted, abolishing the prison system today involves furthering and ultimately completing the work of the abolition of slavery. The abolition of capitalism, colonialism, patriarchy, white supremacy, and nuclear power plants is also the unfinished business of our liberation from what Sabu Kohso calls the apparatus – including, for example, liberation from capitalism and white supremacy. So in a very basic sense, abolitionism offers us ways to politically theorize and eliminate that which harms us, that which structures and guarantees genocide, planet-cide, and so much harm.

First, I want to trace a very brief history of how and where I have encountered abolitionist solidarity movements and potentiality over the past six months since March 11th.

Last March I was in Riverside, California, attending a conference entitled Critical Ethnic Studies and the Future of Genocide: Settler Colonialism/Heteropatriarchy/White Supremacy. The first day of the conference, which itself was full of abolitionist solidarities, was March 10th, and one of the plenary speakers was Waziyatawin, a professor in the Indigenous Governance Program at the University of Victoria in BC. (Some readers may know her from her interviews in Franklin Lopez’s film END:CIV). Waziyatawin began her talk by saying, “It’s important for us to remember that indigenous life has suffered so this institution could be here. Indigenous life has suffered so that we could have this conference here.” (The same can be said of the university where I work, a university also founded by a slave-owning profiteer.) The desire to abolish settler colonialism and white supremacist occupation has emerged in some local movements and actions that make common cause with the Occupy Together movement, but reject the invocation of the word “Occupation” and refer to their efforts instead as Decolonizations. This is an abolitionist approach. I mention this now to foreshadow a strategic orientation I want to punctuate later.

On March 10th in Riverside when Waziyatawin was speaking, it was already March 11th in Japan. She started speaking around 9:30pm, so it was early afternoon in Japan, just after the earthquake. She spoke about planetary devastation and what she called “the perils of professionalization in the times of collapse.” She challenged us to think about what is sustainable and what is not. She showed image after image of more planetary devastation: oil spills, clear-cuts, thousands of dead birds dropping from the sky, and millions of dead sea life washing up on shores. She told us the civilization underwriting all this devastation was already unraveling. As I’m sure was the case for others present, I left sobered by this challenge to facilitate the abolition of that which harms us as quickly as possible to ensure not only our survival,. It was after hearing her talk that I learned of the earthquake in Tôhoku.

On the last day of the same conference, by which time we all knew about the tsunami and the explosion at Fukushima Daiichi, one of the plenary speakers was Audra Simpson. She’s a professor in Columbia University’s Anthropology Department. She spoke about “Columbus’ entrails.” “His entrails,” she argued, “are where we are.” She thus began “not with his voyage or his historical person, but the place where we are,” which she suggested is “in him.” She went on to say “We have been ingested by the motherfucker, all of us, and we are in his innards.” The goal then, of course, would be for us to claw our way out from inside. This was, I think, a call for us to consider abolitionism (in this case the abolition of where we are) from the inside-out. In Simpson’s formulation, those of us inside the belly of the beast are called on to act as abolitionist escape artists whose liberation will necessarily involve the destruction of the body that long ago ingested us, that we were born into, what Sabu Kohso calls the apparatus.

The conference ended with a talk by Dylan Rodríguez, a founding member of the prison abolitionist organization Critical Resistance and Chair of the Department of Ethnic Studies at UC Riverside. Rodríguez posed the following question in the context of Ethnic Studies: “What might it mean to embrace a sense of political and intellectual insurrection that does not move from an assumption of unity or desire for it?” In the midst of the Occupy Wall Street and other Occupation and Decolonization movements, we are finding out more and more what it might mean. Trying to live – as and where possible – the way we want to live while struggling and fighting to do so can open us up to the cultural practices and vitality of abolitionisms that move in defiance of the death drive of the apparatus, Columbus, or civilization.

The talks by Waziyatawin, Audra Simpson, and Dylan Rodriguez were fresh in my mind last spring when I read about Franklin Lopez’s soon-to-be released film END:CIV on the PM Press website. The film promised to engage several questions that events in Japan demanded I take seriously, so I checked the website and learned the film would be available with subtitles in a number of languages, but not yet Japanese. A few months later, Daigo Shima had finished a very impressive translation of the film, and by October, Keisuke Narita of Irregular Rhythm Asylum, an Infoshop in Tokyo, had organized a tour for Lopez to screen the film with Japanese subtitles and speak to audiences in Tokyo, Chiba, Fukuoka, and Osaka. Narita, a brilliant artist in addition to being an effective organizer, made an END NUKE POWER & END CIV stencil, which crystallized for me the coming together of abolitions, of the possibilities and realities of new abolitionist solidarities already underway. It warrants mention that since the tour ended, dozens of people have hosted screenings and discussions of Lopez’s film in their homes in Japan, and similar screenings are happening in North America and elsewhere. The desire to pursue the abolitionist conversations END:CIV film invites is undeniable.

I now want to sketch out one example of where abolitionism can come from.

In spite of the preponderance of evidence suggesting the expansion of criminalization and sentencing policies creates expanded populations, the general public in Japan, like its counterparts in North America, has been coached to support “tough on crime” measures in the interests of “security.” This is how, for example, the state can exact 23 days from your life in captivity without charge in Japan. We also know that states like Japan, the United States, and Canada have always and increasingly imprison and institutionalize more and more of the youth who are most ill-served by those respective states. The criminalization of poverty and oppression, for example, is and has been as baldly instrumental for the sustainability of Japan as a state as it has been for the US or Canada. At the level of official discourse, polices touted as “tough on crime” are presented as a matter of public safety or security, but when we look at how our youngest populations are treated by the state, we see such policies are, in fact, designed to expand options for preemptive and indefinite detention to forestall or prevent insurrection and resistance, a practice that, quite literally, identifies, sequesters, and neutralizes the populations that stand to benefit the most from an insurrection or rebellion before they have the chance to develop a political analysis, organize, etc.

In other words, prisons and policing function to ensure the security of the apparatus, of Columbus, of capitalism, and/or the state. Whether we’re talking about trans youth, indigenous youth, buraku youth, Zainichi youth, poor youth, immigrant youth, homeless youth, youth of color, abused youth, etc., there’s no shortage of liberation struggles or forms of resistance or insurgence that might be possible and are surely necessary for the survival of youth who are imprisoned (or who have “contact” with the criminal justice system). Because of this context, abolitionist solidarity has some real strategic and tactical advantages.

Abolitionism does not ask us to be fortune-tellers. There was talk of the “lack of clarity” regarding future plans or demands in the Occupy Together movements. Asking for clarity and what comes next poses a political question that abolitionism can authorize us to reject. There will certainly be much to learn upon abolition that would impact what comes next. How much more will we be able to theorize and do when we do not have to worry about cops, prisons, debt, or a degree? To use Audra Simpson’s image again, only by clawing our way out from inside Columbus can we see more clearly what might be possible and begin discussing and trying out things without having to focus so much of our energies on courts, police, and elementary self-defense. This is not to argue against or even to minimize the incredible work that many anarchists, anti-authoritarians and others already do to live the way we want to live here and now, but rather acknowledge that we probably can’t yet see or know everything beyond or without the apparatus or outside the mother-fucker’s innards from where we are.

So what might prison abolitionism bring to nuke abolitionisms and other abolitionisms? We see preemptive policing and imprisoning play out at all levels – including the impact of carceral regimes on reproduction (reproduction deterred by imprisonment, but also the reproduction of imprisonments or multigenerational imprisonments that make my point here especially obvious). We know the aggressively expansionist globalizing prison regime requires an ever-expanding population to criminalize. We can look, for example, at the criminalization of association – what we see with “gang enhancement” sentencing clauses (and terrorism enhancement clauses) in the US and pre-delinquency (guhansei) profiling in Japan (which enables the Family Court to intervene with youth who know or associate with already criminalized people or who exhibit “signs” of pre-delinquency, which could be anything from running away from home to family or community history). Family Court in Japan, like its counterparts in North America, preemptively establishes “contact” with potential “delinquents” through profiling. Family Court in Japan has jurisdiction over youth deemed “likely” to engage in criminal behavior or acts. As the law is expanded to allow in more and more youth of younger and younger ages, the time limits on sentencing (up to a maximum of three years until the dawn of the 21st century) have also been scrapped and more room has been made to subject youth to adult criminal processes. Some of the language is really telling (italics mine for emphasis):
“The present Juvenile Act provides that the family court has jurisdiction over juveniles who (a) habitually disobey the proper control of their custodian, (b) repeatedly desert their home without proper reason, (c) associate with persons having a criminal tendency or who are of immoral character, or immoral persons, or frequent places of dubious reputation, and (d) habitually act so as to injure or endanger their own morals or those of others, provided that from their character or environment there is a strong likelihood that the juveniles involved will become offenders.” 2

By assessing “the threat” posed by imprisoned youth in terms of the challenges they might someday pose to a state (or the apparatus) if they weren’t (quite literally) incapacitated in this way, we can begin to extricate discussions of youth and prisons from the narratives of “crime and punishment” (or “morality,” offense,” etc.) and situate them where I argue they belong – in the context of social movements and struggles for autonomy and self-determination. In other words, kids are being locked up – native kids, black kids, trans kids, poor kids, immigrant kids, etc. to make sure they are less likely to be able to resist and threaten the state. Their threat is NOT to our security, but rather to the security of the apparatus or Columbus or civilization or whatever we’re calling it. Prisons, like nuclear power plants, feed the apparatus; they nourish Columbus. This is why I want to nurture and expand our abolitionist solidarities.

As is painfully clear to many of us, liberal, green capitalism has been strangling the radical possibilities of what could already be a strong nuclear abolition movement. Green capitalism overtakes those radical possibilities and funnels the energy of movements back into things that valorize the nation (or apparatus) – shopping or consumer actions, appealing to state officials, engagement with electoral politics, and the like. Instead of surrendering to the compulsion to repeatedly hand over our movements to the very forces that structure and/or at least serve or obey what we want to see abolished, abolitionist solidarities authorize us to demand something better and more sustainable than forestalled or slightly reformed genocide (and planetcide).

I appreciated, for example, the way the Rescue Committee that formed after the targeted arrests of activists at a de-nuke demo in Tokyo on May 7th took an abolitionist stance towards the police in its support efforts. Through some great comics and statements, the Rescue Committee made clear it would not recognize the criminal justice system’s authority even as they organized to secure the release of their comrades. They wanted their comrades out, and they weren’t going to shut down any critique of the system in the process. This was an exciting and radicalizing moment in the early months of the post 3.11 de-nuke demos to me, from afar, where I live in Montreal. Of course, we need our attorneys and engagement with these systems (to appeal to parole boards, to get out, etc.), but this doesn’t mean our movements must surrender our critiques of those systems. The Rescue Committee’s approach may have turned off some liberals, but it opened the movement up to more sustainable solidarities, and I want to say thank you to everyone who was involved with the Rescue Committee. Without an abolitionist position on prisons or police, any of our liberation movements risk domestication. The signs of domestication are with us, to be sure, but so are signs of increasing abolitionist solidarity.

2 See: http://www.courts.go.jp/english/proceedings/juvenile.html

PDF (English)

Adrienne Hurley lives in Montréal and teaches in the departments of East Asian Studies and Integrated Studies in Education at McGill University.  She is the author of Revolutionary Suicide and Other Desperate Measures: Narratives of Youth and Violence from Japan and the United States (2011) and the English language translator for Tomoyuki Hoshino’s novel Lonely Hearts Killer (PM Press, 2009).

 

One thought on “Abolishionism After 3/11”

  1. I appreciated this powerful and stirring meditation on abolition that brings so many important threads together. Especially the ending strongly suggests a direct if unstated link to another kindred abolitionist stance taken by those who strongly oppose on ethical grounds the continued ‘domestication’ of animals, especially to serve as slaughtered food, to perform in dolphin and killer whale shows, as dogs and horses forced to their limits with drugs and whips in racing, etc. Animals too, both wild and domesticated, have suffered in great numbers from the largely human-made catastrophe of 3/11. The systems of production and annihilation that humans create and perpetuate, including those directed to other species, call out for abolition in the strongest terms. Thank you for this call.

Leave a Reply

Fill in your details below or click an icon to log in:

WordPress.com Logo

You are commenting using your WordPress.com account. Log Out / Change )

Twitter picture

You are commenting using your Twitter account. Log Out / Change )

Facebook photo

You are commenting using your Facebook account. Log Out / Change )

Google+ photo

You are commenting using your Google+ account. Log Out / Change )

Connecting to %s