A letter from Silvia Federici and George Caffentzis

(Original text in English below)

彼らの蟻塚を再建する必要はあるのか?
——日本の同志たちへの手紙

シルビア・フェデリッチ/ジョージ・カフェンシス
(和訳:木下ちがや)

同志たちへ

人々の命が失われ、その行方がわからない苦しみの最中に、地震、津波、そして想像を超えるような原子炉のメルトダウンによって引き起こされる計り知れない破壊から生活の再建を図ろうとしている最中に、みなさんに連帯を表明するために、私たちはこの文章を書いている。またこれまでの歴史上で最も恐ろしい原子力災害によって記されるこの時局が、われわれの今後にとって、反資本主義社会運動の行方にとって、そして本質的な日常生活の再生産にとって、何を意味するのか、みなさんと一緒に考えるためにこの文章を書いている。

私たちの今後と反資本主義運動の行方について言えば、ひとつのことがはっきりしている。日本の現状は、世界中で「現在進行中」のいかなる災害よりも、資本主義への民衆の信頼に打撃を与えるであろうし、これまでの核の大惨事の典型例であったチェルノブイリをもはるかに超える打撃を確実にあたえるだろうということだ。この場合には、通常人災に添えられる、どんな言い逃れも、どんな弁明も通用しない 。

アフリカにおける飢餓は、実に不当にも、 資本や技術的な「ノウハウ」等が欠如していること、開発が不足していることのせいにされうる。他方チェルノブイリの事故は、中央計画社会主義社会が生み出したテクノクラートの誇大妄想に原因が求められうる。だが低開発も社会主義も、これらのいずれもが21世紀日本における災害を説明するのには役に立たない。日本は世界第三位の資本主義経済と、地球でもっとも技術的に高度なインフラを有する国だからだ。この地震、津波、そして宿命的ともいえる原子炉の損傷の結果については、資本主義の発展の不足に責任を押し付けるのは不可能である。それどころか、ハイテク資本主義は大惨事からわれわれを守ることはなく、人々の逃げ場を奪い、ひたすらその生活を脅かすだけだということが明白になったのだ。だからこそ日本におけるこの事態は、国際的な資本主義権力構造を脅かし、その正当性を失墜させる可能性がある。 危惧されるあるいはいままさに生じているメルトダウンの連鎖こそは 、資本主義がわれわれのために準備しているものとして示される。——つまりそれは、私たちの幸福のすべてが失われかねない危険のあらわれであり、そしてそこには中国やアメリカをはじめとする原発の増設を計画している国々の将来が映し出されている。

だからこそ、すくなくとも合衆国においては、福島第一原発の内外で進展する状況の深刻さが矮小化され、日々劇的に進展する原発の惨劇を不可視化するために、さまざまなことがなされているのである。

企業家と政治家たちは、この福島の災害が、原子力の正統性への、そして場合によっては資本主義的生産の正統性への大打撃になるということを認識している。これがグローバルな規模での原子力への反乱が生じる状況に至らないための、またそれがより深刻な革命的変革のプロセスにならないための、大規模なイデオロギー•キャンペーンがいままさになされている。実のところ、この日本の核災害は、北アフリカと中東の石油地帯全体の蜂起運動の広がりと軌を一に生じている。このことは、物事はみな制御されているという根拠など何もないという判断をより強めたのである。だが私たちは、事実に優るものはないということを知っている。私たちが目の当たりにしているのは、危機がますます深刻なものになっているということであり、そして主調音を奏でてきた——1970年代以来の先進資本部門である——核と原子力という二つのエネルギー部門の「持続不可能性」が証明されたということである。

この危機を検討するには、福島の災害とともに、合衆国のニュースでは相互に関連付けて扱われていない別のシナリオとあわせて考えるのがいいのではないだろうか。

*リビアでは、NATOと国連はカダフィと結託して反体制的な若者を弾圧している。かれらの生活条件の向上とさらなる自由を求める要求が、石油の安定的な流通を阻害するからであろう。

*コートジボアールでは、フランス、国連、アフリコム(アフリカ担当の米軍司令部)の部隊が、ナイジェリア以後最も重要な西アフリカの国の支配を確実にするために、そしてナイジェリア、アルジェリア、チャドを結ぶ確固たるアフリコムの電力ブリッジを創設するために、EUが抜擢した世界銀行の役人を送り込むために統合軍を展開している。

*バーレーンでは、サウジアラビア軍が民主化デモにたいして大弾圧をおこなっている。

この観点から視ると、福島における災害が国際資本に与える脅威は、多くの人々が癌や白血病に冒され、家を失い、生活の糧を失い、数千年にわたりかれらの土地や水が汚染される可能性があることとしてではない。[国際資本にとっては]民衆の運動に「打ち負か」され、政府が新しい規制を制定し、さらなる原発建設計画を撤回し、そしてその結果核物質の価格が下落し、資本蓄積の主要な資源のひとつが来るべき数十年に深刻な譲歩を強いられることが、危険なのである。ここから、われわれがこの数週間にわたって耳にしてきた、核エネルギー[依存]の方針は変わらないという恥知らずな合唱(パリ、ローマ、ワシントンで声高に唱えられている)とともに、溶解する原子炉の近くで暮らす人々への国際的な後方支援が不足している理由が明らかになる。食料、医療品、衣類を運ぶ飛行機はどこにいるのだろうか。医者はどこにいる?看護婦は?技術者は?。コートジボアールで戦闘準備をしている国連はどこにいる?答えを待つまでも無い。EUとアメリカに関していえば、原子力災害によって人々の問題意識が浸透し、そして世界規模での原子力への嫌悪が起きることを防止し、目覚めた人々がこの危険について多くを語るのに対抗するために、ありとあらゆることをするというのがかれらの方針なのである。

しかしながら、この事故に対する世界の政治家達の反応には何か他のものがある。私たちが目にしている日本の津波と核災害に対する反応のうち、とりわけ合衆国でもっとも著しいのは、いかなる人道的な行為も却下し、人命の保護へのいかなる関与も拒否するという資本主義の時代のはじまりである。事態の発端からちょうど一ヶ月後、日本における大災害は未だ続いているのに、夕方のニュースでは今や脇に追いやられた(同じように、メキシコ湾の石油流出についても、もう何も言及されない)。それだけではなく、私たちはこう繰り返し伝えられる。大災害は避けられない、安全なエネルギーなどない、災害とは教訓を受けるものである、後退する心配はない、おまけにすべては否定的なわけではない、東京のトラブルは大阪の利益になるのだ!。

これは今日、金融危機についてなされている議論と同じ理屈である。金融専門家は、大規模な経済危機を防ぐことは不可能であるということに全面的には同意する。しかしながら政府の巧みな規制を、銀行家は免れることができる。スタンフォード大学の金融学者ポール・ローマーは、2011年3月11日のニューヨークタイムスのインタビューでこう述べている。「十年に一度かそれくらいの割合で、有限的であるどんな金融規制システムも、系統的な金融危機を引き起こしてきた」。ということは、年金で生活し、少額の預金を持ち、また住宅ローンを組んでいるような者は、周期的な損失に備えるべきであり、それは如何ともしがたいというわけだ!

私たちは今日本で、世界資本主義のシステムの本当の姿が明らかになった瞬間を目の当たりにしている。五世紀にわたる地球上の何百万もの人々の搾取ののちに、科学は人類の普遍的な完成への道を切りひらくという終わりなき長談義ののちに、資本主義システムは、人類のあらゆる主要な問題の解決法を提示するのはわれわれの仕事ではないと決意し、自分たちは資本と一体であり、代替案をつくりあげる意欲も能力も失い、私たちの生活が全面的に破壊されることが明らかになったのちに、なおかつ遠い未来を重んじることはできないというはっきりした確信を抱いたのである(…)。ここで思い出すのは連邦緊急事態管理庁の高官チャップマンの回答である。彼は30年前、もし「アメリカの諸制度がソビエトとの全面戦争で生き残るならどうなるか」という問いにこう答えた。「最終的には、ああ、彼ら、蟻は結局別の蟻塚をつくる、そう思うよ」。

われわれの使命は、チャップマンの誤りを明らかにすることである。つまりわれわれは無思慮な働き蟻ではない、何度破壊されても気にしないで機械的に塚を再建する働き蟻ではないということを証明することである。もし数ヶ月のうちに、いつに変わらぬ企業が優勢になったとしても、それは大きな政治的災害になっていくと私たちは考えている。数ヶ月ののち、破壊された原発から放射能が流出しているように、日本の民衆、そして私たちになされたことへの抗議をこめたグローバルな規模の運動のうねりを目にすることになるだろう。

ただ私たちが留意するのは、この日本の災害に対する運動が、ただたんに、もうこれ以上原発をつくるな、いまあるものを廃棄しろ、もっと「クリーンエネルギー」技術への投資を高めろという要求に限定されるべきではないということだ。 福島における炉心溶解は、世界中の反原発運動の火花に繋がるに違いない。ただし、スリーマイル島の災害後の私たちの経験から判断するに、この運動が闘争が原発の縮小あるいは核兵器の存在への反対だけにとどまるならば、成功の望みは薄いということである。これは1980年代の反核運動の特徴であったように問題を狭く捉えるやり方であり、このように特殊課題として扱うアプローチは、まず原発を減らさない限り、他の課題に対処しえないという主張に他ならない。死、ジェノサイド、そして環境破壊がさまざまなかたちでおこることに対して、この主張は短視眼的ではないかとわれわれは考えている。今私たちが正面から目をむけるべきなのは、原発の増設が提案されていること、そして核体制下では無数のひとびとの生活が破壊されかねないことへの世界の政治家達の冷淡な無関心、そしてそれが、地球上の人びとを現実の脅威に陥れている国家と資本総体の関係を兆していることに対してである。

われわれに必要なのは、原子力の問題に対して、現在の私たちと資本との関係を読み解くプリズムとしてアプローチすることであり、そのことで私たちの多様な闘争と抵抗の形態をともにつくだすことである。それがない為に、今のところ私たちの政治活動は力のないままであり、夕方のニュースのリビア、コートジボワール、日本のレポートと同じように、ばらばらにされ断片的である。

この方向に向かう最初の一歩は、核兵器を増やすことがコミュニズムの脅威の訴えとは関係なかったのと同じように、原子力はエネルギーの必要性とは関係ないことを確認することである。原子力はエネルギーの類ではなく、剰余労働の搾取を集積する資本蓄積の特殊な形式であり、また数百万の人々の運動を取り締まり、そして絶滅の脅威をつうじて地域的、グローバルなヘゲモニーの達成を可能にする社会統制なのである。その主たる目的のひとつは、抵抗を回避することにあり、従順さと受動性を生み出すことだ。それは、私たちがカトリーナ、ハイチ、そして今の日本で目にしていることである。それは過去には、太平洋の大気中と地下で、フランスとアメリカ政府が数百の核爆弾を爆発させることを可能にし、マーシャル諸島やタヒチの住民全体を実験材料に利用することを可能にしたのだ。

だから原子力は、社会運動が現実のものとなり、それを政治的な脅威に高め上げたときはじめて廃絶できる。その運動が原子力を私たちの生活の価値を切り下げる破壊的なエネルギーとしてだけではなく、蓄積とテロの戦略として捉え、そして「金融危機」の利用に対する闘争とつながるならば、また医療や教育の切り捨てに対する闘争とつながるならば、廃絶することができる。この企画のためには、合衆国の人々は核爆弾や核実験の犠牲にさらされてきた人びとの子孫への保障を要求しなければならない。このような私たちの闘争は、広島、長崎にはじまる、原子力の利用による過去の犯罪への関与の記憶を再活性化せねばならない。

何故なら、記憶と共に、正義の要求はやって来るのだ。

連帯を求めて、

シルビア•フェデリチ
ジョージ•カフェンシス

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Must We Rebuild Their Anthill?
A Letter to/for Japanese Comrades

By Silvia Federici and George Caffentzis

Dear comrades,

We are writing to express to you our solidarity at a time when the pain for those who have died or have disappeared is still raw, and the task of reshaping of life out of the immense wreckage caused by the earthquake, the tsunami and the nuclear reactor meltdowns must appear unimaginable. We also write to think together with you what this moment marked by the most horrific nuclear disaster yet in history signifies for our future, for the politics of anti-capitalist social movements, as well as the fundamentals of everyday reproduction.

Concerning our future and the politics of anti-capitalist movements, one thing is sure. The present situation in Japan is potentially more damaging to people’s confidence in capitalism than any disaster in the “under-developed” world and certainly far more damaging than the previous exemplar of nuclear catastrophe, Chernobyl.  For none of the exonerating excuses or explanations commonly flagged in front of man-made disasters can apply in this case.  Famines in Africa can be blamed, however wrongly, on the lack of capital and technological “know how,” i.e., they can be blamed on the lack of development, while the Chernobyl accident can be attributed to the technocratic megalomania bred in centrally-planned socialist societies. But neither underdevelopment nor socialism can be used to explain a disaster in 21st century Japan that has the world’s third largest capitalist economy and the most technologically sophisticated infrastructure on the planet. The consequences of the earthquake, the tsunami and, most fatefully, the damaged nuclear reactors can hardly be blamed on the lack of capitalist development. On the contrary, they are the clearest evidence that high tech capitalism does not protect us against catastrophes, and it only intensifies their threat to human life while blocking any escape route. This is why the events in Japan are potentially so threatening and so de-legitimizing for the international capitalist power-structure. For the chain of meltdowns feared or actually occurring stands as a concrete embodiment of what capitalism has in store for us —an embodiment of the dangers to which we are being exposed with total disregard of our well-being, and what we can expect in our future, as from China to the US and beyond, country after country is planning to multiply its nuclear plants.

This is also why so much is done, at least in the US, to minimize the severity of the situation evolving in and around the Fukushima Daiichi plants and to place the dramatic developments daily unfolding in and out of the plants out of sight.

Company men and politicians are aware that the disaster at Fukushima is tremendous blow to the legitimacy of nuclear power and in a way the legitimacy of capitalist production. A tremendous ideological campaign is under way to make sure that it does not become the occasion for a global revolt against nuclear power and more important for a process of revolutionary change. The fact that the nuclear disaster in Japan is taking place in concomitance with the spreading of insurrectional movements throughout the oil regions of North Africa and the Middle East undoubtedly adds to the determination to establish against all evidence that everything is under control. But we know that nothing is further from the truth, and that what we are witnessing is the deepening crisis, indeed the proof of the “unsustainability” of the energy sector — since the ‘70s the leading capitalist sector— in its two main articulations: nuclear and oil.

We think it helps, then, in considering this crisis, to think the Fukushima disaster together with different scenarios that, in their representation on the US evening news seem to have nothing in common with it and with each other.

*Libya: where NATO and the UN are collaborating with Ghedaffi in the destruction of a rebellious youth whose demands for better living conditions and more freedom may jeopardize the regular flow of oil.

*Ivory Coast: where French, UN and Africom (the US military command devoted to Africa) troops have joined ranks to install a World Bank official, handpicked by the EU, to clearly gain control of West Africa’s most important country after Nigeria and create a solid Africom-powered bridge connecting the Nigerian, to the Algerian and Chadian oilfields.

*Baharain: where Saudi Arabian troops are brought in to slaughter pro-democracy demonstrators.

Viewed, in this context, the threat the disaster at Fukushima poses to international capital is not that thousands of people may develop cancer, leukemia, loose their homes, loose their sources of livelihood, see their lands and waters contaminated for thousands of years.  The danger is that ‘caving in’ in front of popular mobilizations, governments will institute new regulations, scrap plans for more nuclear plants construction and, in the aftermath, nuclear stocks will fall and one of the main sources of capital accumulation will be severely compromised for decades to come. These concerns explain not only the chorus of shameless declarations we heard in recent weeks (bouncing from Paris and Rome to Washington) to the effect that the path to nuclear power is one with no return, but also the lack of any international logistic support for the populations living in the proximity of the melting reactors.  Where are the planes carrying food, medicines, blankets? Where are the doctors, the nurses, and engineers? Where is the United Nations that is so readily fighting in Ivory Coast?  We do not need to ask. Clearly, as far as the EU/US are concerned, the guideline is that everything must be done to prevent this nuclear disaster from sinking into the consciousness of people and trigger a worldwide revulsion against nuclear power and against those who knowingly have exposed so many to its dangers.

There is also something else however in the response of the world politicians to this juncture.  What we are witnessing, most dramatically, in the response to the tsunami and nuclear disaster in Japan, especially in the US, is the beginning of an era in which capitalism is dropping any humanitarian pretense and refusing any commitment to the protection of human life.  Not only, just one month after its inception, the catastrophe that is still unfolding in Japan is already being pushed to a corner of the evening news in the same way as nothing is any longer said about the oil spill in the Gulf of Mexico. We are also repeatedly informed that catastrophes are inevitable, that no energy path is safe, that disasters are something to be learnt from, not a cause for retreat, and, to top it off, that not all is negative, after all, Tokyo’s troubles are Osaka’s gain!

This is the same doctrine that today we are dished out in debates on the financial crisis. Financial experts now all agree that it is impossible to prevent major economic crises, because, however clever government regulations may be, bankers can elude them. As Paul Romer, a finance professor in Stamford University, put in a New York Times interview  (3/11/2011): “Every decade or so, any finite system of financial regulation will lead to systemic financial crisis.” That is, those of us who are on pensions or have a few savings or have taken out a mortgage must prepare for periodic losses and there is nothing that can be done about it!

What we see, then, today in Japan, is the moment of truth of a world capitalist system that, after five centuries of exploitation of millions across the planet, and after endless litanies on the fact that science opens a path of constant perfectibility of the human race, has decided that it is not their business to offer solutions to any major human problem, obviously convinced that we have become so identified with capital, and have so lost the will and capacity to construct an alternative to it, that we will not be able to prise its future apart from ours even after it has demonstrated to be totally destructive of our lives.   We are reminded here of the response that Mr. Chipman, an official of the Federal Emergency Management Agency (FEMA), gave when asked, thirty years ago, if “American institutions” would survive an all-out nuclear war with the Soviet Union. “I think -–he replied– they would, eventually, yeah. As I say, the ants eventually build another anthill.”

We think is our task to prove Mr. Chipman wrong –to prove that we will not be like the mindless laborious ants who mechanically reconstruct their hill not matter how many times it is destroyed.

We believe it will be a major political disaster if in the months to come we will see business as usual prevail, and the surge of a broad global movement protesting what has been done to the people of Japan and to us all as the current will bring to our shore the radioactivity leaking from the unraveling plants.

We are concerned however that a mobilization in response to the disaster in Japan should not be limited to demanding that no more nuclear plants be constructed and those in existence be dismantled, nor that more investment be directed to the development of ‘clean energy’ technology. Undoubtedly, the Fukushima meltdowns must be the spark for a worldwide anti-nuclear movement. But we think, judging also from our experience in the aftermath of the disaster at Three Mile Island, that this movement will not have any hope of success if the struggle to eliminate nuclear plants or against the existence of nuclear armaments, is approached in the narrow manner characteristic of the anti-nuclear movement of the 1980s, if approached, that is, as a special issue, according to the argument that if we do not eliminate first nuclear power we will not be around to deal with other issues. This, we believe, is a short-sighted argument, as death, genocide and the ecological destruction of the environment come in many forms. Indeed, rather than as exceptions we should see the proposed proliferation of nuclear plants and the callous indifference demonstrated by world politicians to the possible destruction of million of lives under a nuclear regime as symptomatic of a whole relation to capital and the state that is the real threat to people across the planet.

What we need is to approach the question of nuclear power as the prism through which to read our present relation to capital and bring our different struggles and forms of resistance together. Short of that, our political activities will remain powerless, separated and fragmented like the reports about Libya, Ivory Coast and Japan on the networks’ evening news.

A first step in this direction is to establish that Nuclear Power has nothing to do with energy needs, in the same way as nuclear arms proliferation had nothing to do with the alleged threat posed by communism. Nuclear power is not just an energy form, it a specific form of capital accumulation and social control enabling capital to centralize the extraction of surplus labor, police the movements of millions of people, and achieve regional or global hegemony through the threat of annihilation. One of its main objectives is pre/empting resistance, generating the kind of docility and passivity that we have witnessed in response to such capital-made disasters as Katrina, Haiti and today Japan, and that in the past enabled the French and US governments to explode hundreds of atomic bombs in open air and underground tests in the Pacific and use entire population from the Marshall Islands to Tahiti, as guinea pigs.

Nuclear power, therefore, can only be destroyed when social movements come into existence that treat it politically, not only as a destructive form of energy but as a strategy of accumulation and terror– a means of devaluation of our lives– and place it on a continuum with the struggle against the use of the “financial crisis,“ or against the cuts to healthcare and education. To this program, those of us who live in the US must add the demand for reparations for the descendants of the people who have been the victims of US nuclear bombs and nuclear tests. For our struggle must revive the memory of the crimes that have been committed in the past through the use of nuclear power beginning with Hiroshima and Nagasaki.

For with memory comes the demand for justice.

In solidarity,

Silvia and George

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